豊臣 一服じゃない、一撃だ。
「南禅寺中金地院」から歩いて訪れました。
粟田神社の末社「鍛冶神社」は、豊臣秀吉を祀る「豊国神社 (長浜市)」を訪れた時にブログで書きました「豊臣秀吉やその一族の先祖は、鍛冶や製鉄など「鉄」にかかわる所伝が多い」そのルーツの「大和鍛治」に関わる神社ではないかと訪れたのです。詳細は後で書きます。
粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神を祀る鍛冶の神様。
三条小鍛冶宗近(生没年未詳)は,平安中期の刀工粟田口宗近のこと。山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある。
その住居は三条通北側の合槌稲荷附近にあったという。
刀剣乱舞ファンの間で通称三日月宗近の実家として親しまれる「三条小鍛冶宗近」
ある夜、一条天皇(980~1011年)が不思議な夢を見られて、当時名工として知られた三条の小鍛冶宗近に御剣を打つことを命ずる為に、橘道成を勅使として遣わされました。
宗近は宣旨を承りはしたものの、一人では御剣を打つことが出来ません。
相槌に優れた者が居なくて困った宗近は、神にすがるより仕方ないと思い、氏神である稲荷明神に祈願のために出かけます。
すると一人の童子が現れて、不思議にもその童子は既に勅命を知っており、「君の恵みによって御剣は、必ず成就するであろう」と安心させます。
そして、和漢の銘剣の威徳や故事を述べ、特に日本武尊の草薙剣の物語を詳しく語って聞かせ、「通力の身を変じて力を添えよう」と言って、稲荷山に消えていきます。
宗近は屋敷に戻って、しめ縄を張った壇をしつらえ、童子の教えのままに剣を打つ支度を調えて、祝詞を唱えて待ち構えていると、稲荷明神からの使いの狐が現れて、相槌となって御剣を打つのを手伝ってくれたのでした。
やがて御剣は完成し、表に小鍛冶宗近、裏には小狐と銘を入れ、勅使に捧げると、狐は再び稲荷山に帰っていきます。
古来、一条天皇の治世、永延頃(10世紀末頃)の刀工と伝える。
現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」。
▶祇園祭の長刀鉾
籖とらずの名があるように、毎年祇園祭の山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾で、てっぺんに大長刀をつけている。その大長刀は三条小鍛冶宗近が、娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したものである。
鎌倉時代にある武人が愛用したが、何かと不思議なことが起こるので返納したと言われている。大永二年(1522年)疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ疫病は退散したという。
▶三日月宗近(国宝)
天下五剣と言われる名刀の一つ。宗近の作で、焼刃に三日月形の文様が多数浮き出ていることから、三日月宗近と呼ばれる様になった。
豊臣秀吉の正室、北の政所が所有していたが、後に遺物として徳川家に渡り、現在は東京国立博物館に所蔵される。
粟田神社の二の鳥居のすぐ上がった所左手にあります
粟田神社は、坂を少し上がった所
北向稲荷神社
鍛冶神社を上がった「粟田神社」に北向稲荷神社があります。
御創建年代は不詳ですが、江戸時代の絵図には稲荷社が載せられており、古くから粟田神社境内に鎮座されていたと思われます。
御祭神は雪丸稲荷他三座で、雪丸稲荷は三条小鍛冶宗近(平安末期の名刀匠)が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったお稲荷さんと云われています。
宗近は御百稲荷(現在は都ホテル内にあり、昔はここを稲荷山といった)に詣でて祈り、その稲荷の神霊に相槌を打って頂いて剣を打ち上げたそうです。打ち上げた剣の表には小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を打ったと云われています。
宗近が詣でた御百稲荷とは☞
そうそう「伏見稲荷大社」には、謡曲『小鍛冶』の中で三条小鍛冶宗近が、稲荷大神の力を借りて名剣「小狐丸」を鍛えたとされる場所。「御剣社みつるぎしゃ(長者社)」があります。
芳井敬老氏は
「稲荷山の赤土が謡曲『小鍛冶』のなかで、三条小鍛冶宗近の霊剣つくりに焼刃土として登場する。当山の赤土の霊威を古代の人々が語り継いできた結果生まれたものではないだろうかと述べる。
稲荷山の赤埴土が出土し、鉄分を含んでいる。
古くから稲荷神は鍛冶神として全国の鍛冶関係の人々が信仰する神社で「フイゴ祭」の時には全国の鍛冶職人が集まって盛大な祭りを行っていた。
江戸時祭から戦前まで、殆どの町村、部落に鍛冶屋がいた時代には、全国で11月8日には鞴祀りが行われ、鍛冶職人の家は屋敷神として稲荷神を祀っていた。
『月耕随筆 稲葉山小鍛治
尾形月耕。三条宗近が稲葉明神の化身とともに作刀する謡曲「小鍛冶」を題材としたもの
豊臣秀吉の鍛冶
奈良の若草山の麓に「三條小鍛冶宗近」という刃物屋さんがあり、前々から気になっていて包丁など購入しようかと通る度に思うのですが、結局買わずで帰ってしまうのですが
この「三條小鍛冶宗近」さんは、室町時代に山城鍛冶、三條小鍛冶宗近の直系が興福寺や東大寺の要請に応えて奈良に移り、尼ヶ辻で主に僧兵の刀剣や武器類を鍛造したといいます。
しかし?刀の祖、鍛冶屋の祖と言えば奈良発祥の「奈良の宇陀」といったイメージがあったのですが、逆輸入のようなものなのでしょうか?
三日月宗近(国宝)を豊臣秀吉の正室、北の政所が所有していたことにもリンクするのですが
秀吉やその一族の先祖は、鍛冶や製鉄など「鉄」にかかわる所伝が多い。
宝賀寿男氏によると
◉秀吉の母方系
「太閤母公系」は、秀吉の母方を代々の鍛冶としており、初代(秀吉の九代前の先祖)は大和国の刀鍛冶で「佐波多村主の後」とある。
「佐波多村主の後」は渡来人で、平安時代にまとめられた古代の氏族の系譜資料である『新撰姓氏録』によると、応神天皇(五世紀ごろ)のとき朝鮮半島の混乱を避けて、阿智王という中国系(自称)の王族ともに日本に渡ってきた七つの氏族のなかに、「皂」姓で、 大和国宇太郡佐波多村主で長幡部の祖とされている。
◉秀吉の父方系
『塩尻』とうい秀吉の系図によると「国吉〜吉高〜昌吉〜秀吉」
秀吉の父方、初代にあたる「国吉」については、近江国浅井郡(滋賀県長浜市内)に生まれ、昌盛法師と号して、山門(比叡山延暦寺)にいたが、後に遷俗して、尾張に中村に移った事が記され、その三代目が秀吉で、これが父方系図に共通するという。
また、「太閤母公系」を納める『諸系譜』には、戦国大名の浅井氏の支流としていた。
浅井氏の居城であった小谷城の城下に草野(長浜市鍛冶屋町)という集落がある。
◉草野(長浜市鍛冶屋町)
明治時代の初頭、長浜市鍛冶屋町の集落には百四十戸の家があり、そのうち百十戸が鍛冶屋だったという。この町に鎮座する「草野神社」の祭神は、草野姫命、伊弉諾命とともに豊臣秀吉が祀られています。これは江戸時代のはじめ豊国神社を勧請し境内社を建てたといい、豊国大明神の御神体は槍の穂先だったといいます。
この鍛冶屋町では「秀吉は鍛冶屋村の近くの中村というところで生まれこの地の鍛冶屋で働いていた」と伝わっています。
草野(長浜市鍛冶屋町)は戦国時代、全国屈指の武具の生産地で、とくに「草野槍」と呼ばれた槍が有名でした。江戸時代以降は農家で使われる鍬や鎌などを製造する野鍛冶に転じている。
江戸時代に書かれた地誌『近江輿地志略』には「源頼朝、大和国宇多郡草野村より、鍛冶一人、此の地に召し置かる。今に其子孫多し。」とあり、草野(長浜市鍛冶屋町)の鍛冶師たちはその子孫だという。これは、秀吉につながる「大和国宇太郡佐波多村主」の事。
草野の鍛冶集落から草野川に沿ってくだる国友には戦国時代から江戸時代にかけて多くの鉄砲鍛冶がいて、大阪の堺とともに二大産地となっていました。
越の国へ
富山県域における刀鍛冶の主流は、鎌倉時代末期に大和国宇陀郡より移住した古入道国光を祖とすると伝えられており「越中国宇多派」と称しています。
今も昔も北陸に向かう人は
磐子に沿って北上して、国境の山塊を越えて越前にはいります。先のベた長浜の草野の鍛冶集落は、都から北陸に至る道の真ん中にあり、どちらもルーツを「大和国宇太郡」にもつ。
鍛冶屋のルーツ「大和国宇太郡」
日本刀鍛冶の始祖とも称される伝統的刀工、「天国(あまくに)」は宇陀を拠点としていたという。
奈良県高市郡高取町字清水谷の芦原峠北側にあった尼ヶ谷集落(大和国高市郡清水谷村字アマクニ)には、天国が作刀した地としての伝承が残されており、刀工の名が尼ヶ谷の地名の由来とも伝えられる。
現在同地の集落は消滅したが、作刀の際に使用したとされる井戸が、当地に存在した元・天国三輪神社に残されている。同社は天国の守護神である大神神社の大物主の分霊を祀っていたとされており、現在、同字にある高生神社に遷され合祀されている。
また、奈良県宇陀市菟田野稲戸というところ八坂神社があり、天国が作刀のときに使ったとつたわる井戸があります。
「明治四十一年十一月明治天皇奈良市行幸特別大演習を耳成山に御統監被為在に際し本部町村長會は剣を奉献する事を決議し萩原の住人池田重光氏に剣(小鳥丸作り)を製作せしむ 氏は昔時天國の故事を慕ひ齋戒沐浴して此の井水を以て剣を力作す 頗る名刀を得たり」
とある。
剣(小鳥丸作り)は、平家一門の宝刀として伝えられる小烏丸の作者と記載されている。
大和の国は昔
より大和川、名張川に良質の砂鉄産出し、加えて興福寺、東大寺、法隆寺、多武峰談山、吉野等の大寺の衆徒(僧兵)に武器を供給せんがため刀鍛治、胄師、研師、金具師多く居住す。大和鍛治これなり。
稲荷山の赤土も良質の砂鉄産出していたのか?
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今回は、終わりを意味する「お終い」「お仕舞い」について、その語源をたずねていきます。
■「しまい」の意味
今日の日本語「しまい」には、単に終わらせるだけではなく、片づける、始末する、などといったニュアンスを含む、日本語独特の文化・価値観があるようです。
まず辞典で、一般的な語彙をみてみましょう。
しまい【仕舞い・仕舞・終い・粉粧】
〔動詞「しまう」の連用形から〕
① 今までしていたことを終わらせること。 「今日はこれで-にしよう」 「店-」
② 続いているものの最後。一番後ろ。 「 -まで全部読む」 「 -には怒り出す」 「 -風呂」
③ 物がすっかりなくなること。商品が売り切れること。 「お刺身はもうお-になりました」
④ 決まりをつけること。始末。清算。 「其の詮議を傍道からさし出て-のつかぬ内には何となさるるな/歌舞伎・毛抜」
⑤ 遊里で、遊女が客に揚げられること。 「みな一通り盃すみ、此の間に松田屋を-にやる/洒落本・通言総籬」
⑥ 〔「じまい」の形で〕 動詞の未然形に打ち消しの助動詞「ず」の付いた形に付いて、(…しないで)終わってしまったという意を表す。 「行かず-」 「会わず-」
⑦ (「粉粧」とも書く)化粧。 「花嫁の美くしう濃こつてりとお-をした顔/塩原多助一代記 円朝」
(『大辞林 第三版』三省堂)
■日本文化は「しまう」文化
日本語と日本文化には、さまざまな「仕舞い」のかたちがあります。
【能の仕舞】
言の葉庵読者の皆様なら、仕舞いと聞くと、まず能の仕舞をイメージされるかもしれません。
能の仕舞は一曲の見どころ、聞きどころを、シテが紋服姿で扇をもって舞う略式上演形態。
その昔、貴人の要望に応え、能を演じ終わったシテが催しの終わりにアンコールとして舞ったもの、とする説があり、「お仕舞」から終わりを意味する「お仕舞い」が生まれたともいい伝えます。
「しまふ」の言葉が鎌倉~室町時代に成立しており、そこは符合するようです。
一日をきれいに舞い納める―。能の仕舞には、美しくしめくくるというニュアンスがたしかにあります。
【仕舞いの挨拶】
茶道薄茶の点前で、仕舞いの挨拶という決まりごとがあります。薄茶を飲み終え、戻ってきた茶碗に亭主が湯を入れ建水に捨てたタイミングで、正客が「どうぞお仕舞いください」と挨拶する。これで主は次の点前に取り掛かりますが、あ・うんの呼吸できれいに場を納める「仕舞い」の思いを感じ取れます。
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【ご供養仕舞い】
仏教では仏壇や位牌を処分することを「ご供養仕舞い」といいます。仏壇は自治体で粗大ごみとして処分できますが、さすがにそうも出来ない時に、僧侶が呼ばれ「ご供養仕舞い」が行われます。
僧により仏壇から魂を抜いてもらう法式を「魂抜き」、または「性根抜き」というそうです。そしてただの家具となった仏壇は専用施設で焼却されますが、これを「お焚き上げ」といいます。
【しもたや】
時代劇などでよく耳にする「しもたや」。漢字で書くと意が通じます。仕舞た屋。京言葉の「しもうた家」のこと。以前は商いをする家であったものが、店をたたみ一般の住まいとして人が住む家をさします。老夫婦が住まう閑かなたたずまいが感じとれる呼び名ではないでしょうか。
日本文化の「仕舞う」には、ただの終わりではなく、きれいに片づけ、整えて、次の新しい命を生み出し、呼び入れていくための知恵が宿っているのです。
■「舞」の字は、「無」から生まれた
「しまい」は、「終い」「仕舞い」と表記します。終いは意味からあてた字ですが、一般的に「仕舞い」を書く場合が多く、もともとこの表記でした。
なぜ終わりを表す文字に「舞」を用いたのでしょうか。漢和辞典【舞】の字解には以下のようにあります。
【舞】ブ/まう
字解
形声。舛(セン)が意符で、まい足のそむきあう意を表し、無(ブ)が音符。一説に象形。もと無がまいの象形字であったが、もっぱら否定詞に借用されたため、まい足の象形、舛を加えて、まいの字にしたという。
(『新漢和辞典』大修館書店)
白川静『常用字解』では、甲骨文字から篆文体にいたる字形の変遷とともに、より詳しく「舞」の字の発祥が語られます。
【舞】
解説 もとの字は舞に作り、無と舛とを組み合わせた形。無は舞う人の形。衣の袖に飾りをつけ、袖をひるがえして舞う人の姿である。無がもっぱら有無の無(ない)の意味に用いられるようになって、舞う時の足の形である舛(左右の足が外に向かって開く形)を加えて舞とし、「まう、まい、おどる」の意味に用いる。無はもと舞雩(ブウ)という雨乞いの祭りで、甲骨文には舞雩のことが多く見える。
⇒舞の字の変遷
「舞」が衣の袖に飾りをつけて、舞う人の字形であり、「舞」の元字である「無」が雨乞いの祭りをあらわした、と白川は説きます。
ではなぜ、「無
が否定の語として用いられるようになったのでしょうか。
■無いものを求めて、人は舞う
古代より人は、雨を天に乞うて祭り、踊りました。「舞」や「武」の字は、もともと足りないもの、無いものを求める、という根本義があるとする説を紹介しましょう。
「『釈名』に「武は舞なり」という語源説がある。逆に「舞は武なり」も成り立つ。武は「無いものを求める」という
コアイメージがある(1600「武」を見よ)。王力は巫と舞を同源とする(『同源字典』)。藤堂明保は武・巫・舞・無・馬・摸などが同源の単語家族を構成し、「探り求める」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。
miuag(舞)という言葉は巫・武と関係がある。巫(シャーマン)は舞うことによって神に幸いを求める人である。また武は力によってむりやり領土や物(戦利品)を求めようとする行為である。これらの行為の前提をなすのは「無」である。こちらに無いからこそ他から求めようとする。シャーマンは踊ることによって無いものを求める。「おどる」と「ない」が結びついている。「おどる」⇄「ない」は巫という語では可逆的なイメージとなっている。舞と無の関係もこれと同じである。」
(HP常用漢字論―白川漢字学説の検証 )
■日本人は、ひとさし舞って無へ帰る
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
(松尾芭蕉 元禄二年)
人は自らの終焉に臨み、辞世の句を詠んで静かにわが生を振り返ります。
そして扇を手に、ひとさし舞って最期に花を添えるもの。これこそ真正の武士と目されたのです。
本能寺の変の時、豊臣秀吉が水攻めをかけたのが毛利方である、備中高松城でした。
城主清水宗治は自らの首とひきかえに、城兵五千の命を救うことを条件として、秀吉との和睦を受け入れました。
最期の朝、巨大な湖に没した高松城より、宗治主従を乗せた小舟が静かに敵陣へ向け漕ぎ出します。
以下本文を、戦時中の初等科国語教科書「ひとさしの舞」よりご紹介しましょう。
いつ
まにか、夜は明けはなれてゐた。
身を淸め、姿を正した宗治は、巳みの刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かつて舟をこぎ出した。五人の部下が、これに從つた。
向かふからも、檢使の舟がやつて來た。
二さうの舟は、靜かに近づいて、滿々とたたへた水の上に、舷ふなばたを並べた。
「お役目ごくらうでした。」
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」
宗治と檢使とは、ことばずくなに挨拶あいさつを取りかはした。
「長い籠城ろうじやうに、さぞお氣づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」
といつて、檢使は、酒さかなを宗治に供へた。
「これはこれは、思ひがけないお志。ゑんりよなくいただきませう。」
主從六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」
といひながら、立ちあがつた。さうして、おもむろに誓願寺せいぐわんじの曲舞くせまひを歌つて、舞ひ始めた。五人も、これに和した。美しくも、嚴かな舞ひ納めであつた。
舞が終ると、
浮世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔こけにのこして
と辭世の歌を殘して、みごとに切腹をした。五人の者も、皆そのあとを追つた。
檢使は、宗治の首を持ち歸つた。秀吉は、それを上座にすゑて、「あつぱれ武士の手本。」といつてほめそやした。
無に帰することを天に祈り、舞い納める日本語の「仕舞う」。
現代人のぼくたちにとって、卒業、定年、終活など人生の節目をむかえるにあたって、忘れてはならないキーワードではないでしょうか。
■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー
・第六回 間
・第五回 位
・第四回 さび
・第三回 幽玄
・第二回 風狂
・第一回 もののあはれ
※「侘び」については以下参照
・[目利きと目利かず 第三回]
・[目利きと目利かず 第四回]
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ミナミで~~す^0^
とうとう・・ついに・・・
ミナミAアシュタールの念願だった、
破・常識な歴史の本が出版されることになりましたぁ~~^0^
ずっと、ずっと、書きたかった本です^0^
構想5年!執筆1年!やっと、やっと、
みなさまにお届けすることが出来ま~す^0^
いままでの本とはちょっと?かなり?違うテイストの本になりました。
題名もなんと・・・
日本列島から日本人が消える日
こんな表紙で~す!
6月29日、全国の書店に並びます^0^
この本ね、書いた本人が言うのもなんですが・・超~すごいんです。
宇宙のはじまりから現代まで一本筋を通して書いてある歴史の本なんです。
こんな歴史の本、世界どこを探しても他にはありませ~ん。
世界にひとつだけの歴史の本・・です!(きっぱり)
そして、ミナミAアシュタールが書く歴史の本、
この本が最初で最後になると思います。
だって、もうすべて書き尽しちゃったからぁ~~(笑)
それでね、ちょっとネタバレなんですけど・・
なんと・・さくやさんが、信長さんと秀吉さんと家康さんに
話をさせてくれたんですよ~~(驚)
あつしさんが直接インタビューして、3人の本音を聞きだしましたぁ~~。
信長さんの本当の気持ちや、秀吉さんのお茶目な人柄、
家康さんのちょっとしたグチを聞いて、私たちとは時代は違うけど、
あ~、彼らも一人の人間として笑いながら、時には泣きながら、
しっかりと生きていたんだなぁ~~って思いました^^7
あつしさんの破・常識歴史ブログでは明治維新以降は書いていませんが、
今回の本では、明治維新から現代までしっかりと書いています。
そして、どうしていまの社会が、こんなにひどいものになってしまったのかもよ~く分かります。
その上で、こんなひどい、腐りきった社会からそっと離れる方法も
さくやさんがしっかりと分かりやすく教えてくれています。
もうね、とにかくびっくりが連続の本なんです。
常識では考えられない、想像も出来ない、
誰も知らない情報がびっしりと詰まった本です。
絶対(あえて絶対と言わせていただきますが・・)読んでくださ~い!!
あなたの常識を吹っ飛ばしてくれますからぁ~~^0^
真実の歴史なんですけど、歴史としてではなく、
軽いSFとして読んでいただいても充分楽しんでいただけると思います。
学校の歴史の授業で習ったような、
つまらない年号や事件の名前の羅列などありませんから、
ご安心くださいねぇ~~(笑)
<目次>
プロローグ
第一章 刷り込まれた勝者の歴史
第二章 宇宙のはじまり
第三章 テラ(地球)の誕生
第四章 本当に存在したムーとアトランティス文明
第五章 恐竜時代の謎を解き明かす
第六章 縄文時代は、超ハイテクな文明だった
第七章 大陸から支配された弥生時代
第八章 卑弥呼が8人?・・邪馬台国は、和歌山?
第九章 神社の知られざる真実
第十章 飛鳥から戦国時代まで続いた権力争い
第十一章 織田信長の本当の思い
第十二章 豊臣秀吉が信長との約束を破った
第十三章 徳川家康が天下を取ったのは想定外の出来事
第十四章 間違いだらけの江戸時代の認識
第十五章 明治維新はクーデター、黒幕は、岩倉具視
第十六章 明治時代になぜ戦争が多いのか
第十七章 大正から昭和(戦前)まで裏歴史
第十八章 現代社会が腐っている理由
エピローグ(ここからが本題)
最後に
< p>
破・常識あつしで~~す^0^
本当に・・本当に大変長らくお待たせいたしました。
ミナミAアシュタールがお届けします
破・常識な歴史の本です!
表紙のデザインを見て、驚かれた方も多いと思いますが・・
それと「日本列島から日本人が消える日」という題名!
今までのミナミAアシュタールの本とは、
まったく違うテイスト((笑)
今回の私たちのテーマは、インパクト!!
「日本人が消える」ってねえ~
私たちのブログをお読みいただいている読者の皆さまなら
すぐに理解していただけると思いますが・・
本屋さんで初めて見たら、昔ブームになった「日本沈没」や
「ノストラダムスの大予言」とかの類に思われるかもかも・・
それに赤いテラ(地球)から日本列島が浮かび上がる??
何とも不思議な本になりました!それでも良いんです!
何万冊ある本の中にあって、
ちょっとでも引っかかってもらえたら。
テラに赤くしていい?って
ミナミさんからテラに聞いてもらったら
テラが、いいよ~って了承してくれました。
本の内容も今まで教育やマスコミから
刷り込まれた歴史認識とは180度 真逆
コペルニクス的転回、破・常識な情報です。
日本人の99パーセントの方には、
すぐに受け入れてもらえないでしょう!
それどころか怒られるかもね(笑)
それほどヤバイ?情報満載です!
今回は、かなり・・覚悟の上の挑戦です!
ミナミAアシュタール1パーセントプロジェクト
日本人の1パーセント 最低でも約130万人の人々に
アシュタール、さくやさんのメッセージを届ける・・
という活動の集大成だと思っています。
とにかく、この腐ったピラミッド社会からそっと離れて
ご機嫌さんの現実を創造していくには
いつもアシュタールやさくやさんが言ってるように
私たちひとりひとりが物の見方・考え方・価値観を
変えるしかないと思います。
それには真実を知ることから始めなければなりません。
この本は、本当にわかりやすく、面白く、
楽しんでいただけると自負しています。
是非お読みいただき、
今までの物の見方・考え方・価値観を手放し
この腐った日本列島から
積極的に 一緒に消えてしまいましょう!!
6月29日、全国の書店に並びます^0^
上よりも 下にあるほうがいい・・と 思われるみなさまは こちらでポチッとしていただけると 嬉しいです^0^
豊臣 関連ツイート
イケメン戦国
伊達政宗 ネコ缶
@nekokanp
豊臣秀吉 なぎ
@ritu00159
猿飛佐助 ゼン
顕如 ぎん https://t.co/JgGc0SGVm2
関ヶ原の戦いでは、どう転んでもキリスト教が廃れないように両軍にクリスチャンが分散
しかし豊臣家が伴天連追放令で弾圧したのに対し、徳川家は比較的寛容だったから東軍につく人が多かったそう
#平成最後 #関ヶ原2018 https:…
関ヶ原の戦いでは、どう転んでもキリスト教が廃れないように両軍にクリスチャンが分散
しかし豊臣家が伴天連追放令で弾圧したのに対し、徳川家は比較的寛容だったから東軍につく人が多かったそう
#平成最後 #関ヶ原2018 https:…