嘘を暴く快感。豊臣
Yah、みんな久しぶり。
俺のこと覚えてる?
引越し先はネットの環境が悪く、ポケットWIFIだと全く繋がらなくてね
だからたまに、こうやって地獄の虐待ルームにPC持って戻って来た時に、TVerで一週間分のドラマを観て…ブログ・チェックをする暇は無いっちゅう訳なんよ。
でもまぁ、もう私の周りにはネットや携帯で必要な情報を得る事や、人とコミュニケーションを取る事は、「金の無駄遣い!」と宣う 極端に視野の狭いひねくれ者の独裁者はいなくなった。
予定通りに行けば、今月末までにはネット環境も携帯電話(スマホ)も整っている筈ですよ。
この間にも時代は更に変化してしまったけれど、必要最低限の条件さえ整えば、再びあの場所を目指せる。
ここからが復活への本番やっちゅうの!(笑)
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レキ☆ダン(歴男)
4年前、大阪に戻って来た時は(東京ではさほど話題にもなって無かった)文化の違い?大坂の陣から400年になる年だった。
そして今年は、九度山で14年間 蟄居されていた真田信繁(幸村)の元に豊臣秀頼から力を貸して
欲しいとの書状が届いた日に (当日のアナウンサー談)、強い雨が降りしきる中、派手な花火が打ち上げられた。
私は新たな出発を祝うかのような、この日の雨の中の花火と、この街の人々の暖かさを生涯忘れることは無いでしょう。
いや今度こそ必ず、そうしなければいけない!
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IN MY HOUSE.1(玄関)
…と、言うわけで、新居の入り口には、4年間の虐待生活に死の直前まで耐え続けた侍スピリットをいつまでも忘れないように、真田幸村グッズを飾ってみた。
約一名、真田とは関係の無い守人(おじさん)はいるけれども…(笑)
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てか、誰もBONJOVI行かへんの?
一応メッセージ開けてあったし、昔からAMEBA OWNDには問い合わせ先(連絡先)入れてあったのに…ひと~っつも連絡が無いなんてなぁ
しかも、どこの席でもええとか言うとったら ドームのスタンドっちゅう これまでではありえへん様な席にされてもてるし
まだ公演まで時間もあるし、こうなったら携帯が復活した際に、東京にいるタレントさんにでも
掛けてみるかぃ。
こんなんでこの先大丈夫なんかなぁ?
失敗しない豊臣選びは、ココから始まる!
飫肥城は戦国時代、約80年にわたって伊東家と島津家の間で激し
飫肥は九州の小京都と呼ばれ、城下には武家屋敷や蔵、商人通り、
大手門
大手門をくぐると広い枡形にでます。四方すべてが鉄砲狭間付きの
松尾丸にある御殿
藩主の御殿を復元したという話ですが、場所も史実とは異なってい
中は書院造になっています。雰囲気は楽しめます。
湯殿がありました。先日名古屋城本丸御殿で見たものと大きさは違
枡形虎口から、旧本丸跡へと続く石段。
旧本丸跡
ここも立派な杉の木がにょきにょきと立っています。天守は当初か
北門
旧本丸の北側にある土塀付きの薬医門。これも再建だと思われます
旧本丸から本丸
旧本丸は虎口のみ石垣で、周囲は土塁で囲まれています。旧本丸は
静謐さを演出する苔むした石垣や杉木立など、姫路城や名古屋城と
豊臣とは、意味など追求、他にも各種人気商品を取り揃えてます
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と、続いてますm(_ _)m
12月5日
伊勢から出雲への中間地点あたりを考えて
そのへんに宿を予約。(当日予約ね)
それで、岡山県へ行きました。
車をひた走らせて宿に到着。
さて、このご近所には何があるかな?
と、探しだす。
今までの私の旅で学んだこと・・・
宿の周辺に必ずナニカある!!
だから、特に予定を立てずに動くことにしてました。
お導きにお任せするんです。
宿でのんびりしながら、
どうも、岡山城が気になる。と、検索したら、
小早川秀秋・・・って、聞き覚えがあるなぁ・・・
あっ!!!
関ヶ原の戦いで、
豊臣秀吉側から徳川家康に寝返った人だ!
それで、岡山城の城主にしてもらったんだっけ。
千茅さんは、「由加神社が気になる~~~」と言ってて
岡山城のそばにあるようなので
じゃあまずは、岡山城で!!と、決定。
かいもーーーん!!!
岡山城は、烏城(うじょう)とも呼ばれ
そばを流れる旭川を天然の堀として利用した、漆黒の城。
いかにも強そうな城だったそうです。
え~・・・まずは、遊ばせてください(笑)
こういうの見ると、やらずにいられないもんで( ̄∀ ̄)
籠にも乗れまするよ
はい。
終了~。
で、なぜここへ呼ばれたのか
理由は、こちらの親子でございました。
宇喜多直家さん(真ん中)が、苦労の末、
岡山城を中心として宇喜多家の領内を安定させた。
(いろいろ汚い手も使ったと書いてありますが)
だが、長男の秀家(下の人)が10歳の時に、病死。
織田信長のはからいで、
所領はそのままとして秀家が家督を継ぐ。
秀家の母が、羽柴(のちの豊臣)秀吉に取り入り、
秀家は秀吉から寵愛を受け、我が子のように育てられる。
恩返しとばかりに武功を挙げ、五大老の一人に任ぜられるが
豊臣秀吉、死去。
関ヶ原の戦いでは、もちろん秀家は石田三成につき西軍。
徳川家康隊(東軍)に次ぐ兵の多さで東軍と戦ったが
小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅。
小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、
「松尾山(小早川の陣)へ行き金吾(秀秋)を叩き斬ってやる!」
と叫んだそうだが、家臣に制止され、敗走。
秀家は、変装して、島津義弘たちに匿われていたが
島津が匿っているとの噂が広がり、家康に引き渡された。
この時、島津と、娘の豪姫を嫁がせている前田利家の懇願で
死罪は逃れ、八丈島に流刑となった。
裏切り者の小早川秀秋が、宇喜多家領の、岡山城主となった。
石田三成と共に戦った大谷吉継が
関ヶ原の合戦で自害する際、秀秋の陣に向かって
「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん!」と言って切腹している。
小早川秀秋は、岡山藩主となってわずか2年で死去。
子もなかったので、池田氏が藩主として入り
4代目、池田綱政が、日本三名園の後楽園を造園。
だいぶ、はしょって書きましたー
(私も一緒にお勉強)
ほんとに、人に歴史あり。だよね。
宇喜多秀家さんは、妻や子と一緒に八丈島へ移され
親戚からの仕送りなどでなんとか暮らしていたそう。
関ヶ原の戦いに出陣した武将では、一番長く生きたとか。
それにしても、この肖像画・・・
むちゃくちゃ美男子じゃないですか?(笑)
無念な思いだったでしょう。
恩義に篤い人だからこそ、裏切り者の小早川などに
自分の所領を奪われて、はらわた煮えくり返ったことでしょう。
秀家さんは、徳川家康のことは人として好きだったとか・・・
家康さまも、秀家さんに一目置いていたとか・・・
敵・味方など無ければ
きっとものすごく理解しあえる親しい仲になっていたことでしょう。
双方の想いを、一つに和合して参りました。
涙が出てきました。
この石垣は、秀家さんの時代に作った石垣だそうです。
岡山城の入館券を売っていたおばちゃんが
「後楽園もぜひ行ってきて綱政が作ったのよ」
って、綱政の母のように言ってたので
後楽園と共通券を買ってました。
岡山城を出て、後楽園へ。
ジェットコースターはありません。
後楽園の池です。
白姫は、鯉にも姿を変えますよ(*^^)v
慈眼院。綱政さんが観音さまを安置したらしい。
今は観音さまはいないそうだけど。
門の後ろの大岩の亀裂は、
これだけの巨石を運び入れるために、
いくつかに分割して運んだのだそうです。
すごいなー。手作業だよ!?
って、あたし、高校の時、修学旅行で来てるはずなんだ。
ちーーーっとも覚えちゃいないよ
お堂の縁側に、吉備団子と寒椿の花がお供えしてあった。
心遣いが素敵だわ
その隣に、
由加神社があった。
由加大権現って、中のお札に書いてあるけど
何者だろう?
「此の山は無双の霊地にして、
梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、
我を瑜伽大権現として祀るべし」と
夢のお告げを受けた行基(668~749)が、
天平5年に開山したとの伝承。
行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが
瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる。
五流修験道の本山である五流尊瀧院の
長床縁由興廃伝によれば、
瑜伽山は新熊野那智山とされ、
五流尊瀧院(本宮)・諸興寺(新宮)・瑜伽山蓮台寺(那智)を
新熊野権現3社としていた。
(wikipedeaより)
由加=瑜伽(ゆが)で、ヨガの語源らしい。
感覚器官が自分と一つに結びつくことによって
心を制御する精神集中法や、
自己を神と結ぶことによって
瞑想的合一をはかる修行法をいう。
(wikipedeaより)
なるほど~。
当日は、わからないまま、光降(笑)
隣の稲荷も、光降
桜の木がたくさんある中に
こんなにネジネジな木が(笑)
結婚の写真撮影のカップルが2組。
互いに、着物を見あっていた(笑)女心ね(笑)
どちらも素敵よお似合いですわ
素敵なお茶室がありました。
旭川の流れ・・・
時代は変わっても
川は流れる・・・
橋の下のひだまりでくつろいでた猫さん
その時の
につづく
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