み~んなみるる 豊臣

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豊臣はやさしい

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最近、運についていろいろと考えています。

運とは一体、何なのか。

その運はどうやったら来るのか、もらえるのか・・・。

最初に考えていたのは、豊臣秀吉についてです。

戦国時代、信長が天下を取ると予測し、信長についた人は大勢います。

中には戦に強い人もたくさんいて、信長のために精一杯、一生懸命働いた人も少なくなかったと思います。

その人たちと秀吉さんはどこが違うのか?

何が違うのか?

信長のお気に入りは秀吉さんだけではなかったはずで、何故、秀吉さんだけがあそこまで出世したのか・・・考えれば考えるほど謎です。

秀吉さんは一体何を持っていたのか、何が他の人と違うのか・・・。

先見の明があったとか、戦がうまかった、忠誠心が強かった、プライドがなかったのが良かった、フットワークが軽かった、人一倍働いた、頭が良かった、努力を惜しまずにした、人の心をつかむのがうまかった、等、いろいろあったと思いますが、それらを同じように持っていた人もいたであろうと思います。

やはり、最終的には、秀吉さんは特別な強運を持っていた、と言えるのではないかと思います。

農民出身で天下を取るほどの強運をどこで手に入れたのだろう、と思いました。

今、ドコモの学割CMに、ワンダイレクションというイギリスの男の子のグループが出ています。

彼らの曲が好きなので、私もデビュー当時から、アルバムを買っています。

CMで言ってるように、3年前にはパン屋でアルバイトしていた子が、今や年収10億円(推定)です。

イギリスに3億の家をポンと買っています。

3年で人生は変わる、とCMで言っていますが、彼らを見るたびに、運を持っているんだなと思います。

イギリスに歌の上手な子はたくさんいるだろうし、彼らより上手くて、さらにハンサムな子もいると思います。

なのに、ワンダイレクションに入れたのは彼らで、売れているのも彼らなのです。

運とはいったい何なのか・・・。

強運をゲットするには、何か・・・秘訣がありそうです。

秀吉さんなら、そのへんの真相を知っているかもしれないと思った私は、直接秀吉さんから話を聞くために、秀吉さんのお墓である ”豊国廟” に行きました。 (ちょっと前のお話です)

秀吉さんは ”豊国神社” に神として祀られていますが、まだ神様にはなっていないようで、なかなか交信出来ませんでした。

かなり長い時間、廟の周りをぐるぐる回って待ち、しばらくしてやっと話せるようになりました。

もしかしたら、秀吉さんは会話することに乗り気ではなく、すぐに来てくれなかったのかもしれません。

私が見た秀吉さんとおぼしき人物は、とても背が低く、びっくりするくらい小柄で、痩せていました。

有名な肖像画とは別人です。

全然違うのです。

印象としては、色が黒い、と思いました。

顔も小さくて、肖像画のように細長い顔ではなく、丸顔というよりもどちらかというと四角い顔です。

30代後半~40代あたりの姿で出てきていました。

痩せているからなのか、日焼けのせいなのか、若いのにシワが多いです。

猿というよりも、 E.T. の目が小さいバージョン、という感じです。 (ひー、こんなことを書いて秀吉さんが怒りませんように) 

本当に秀吉さんなのだろうか? と思いました。

まず、単刀直入に、運をどうやってゲットしたのか、ズバリ聞いてみました。 (晩年まで含めた生涯の運ではなく、農民から天下を取るまでの立身出世に関する運です)

秀吉さんは運について説明をしてくれて、自分がやったというある方法を教えてくれました。

私はそれを聞いて ”え? それって本当なん?” と思いました。

”そんなことで農民が天下人になるほどの強運に恵まれる?” と、半信半疑どころか、1信9疑です。

半分も信じられないです。

これに関しては、自分で実践してみて、本当である、と確信が持てたら、どこかで書こうと思っていますが、今はまだまだ書ける段階ではないです。

この運をゲットする方法は、秀吉さんが子供の頃、和尚さんに聞いたのだそうです。

他にも一緒に聞いていた子供は数人いたそうですが、 「ワシだけが信じて実行した。信心も大事である」 と言っていました。

この方法を秀吉さんは誰にも言わなかったそうです。

病床で秀頼さん (息子です) だけに話している姿が見えましたが、その時の秀頼さんはまだ幼なすぎて、理解が出来なかったみたいです。

他には誰一人、一切話していないと言っていました。 (天下を取られてはかなわないと思ったようです)

それとは別に、運を逃がさないようにする大事なこともいくつか教えてくれました。

「人とは腹を割って付き合うことが大切で、嘘はいかん」 とのことです。 (この嘘は、本心を隠して誤魔化すとか、うわべだけいい顔をするとか、裏切る、欺くなど多くの意味を含んでいます)

そんなことをしたら、運はサッサと逃げてしまうそうです。

「与えられた場所で精いっぱい働くこと」 「人の2倍、3倍、働いて当たり前」 とも言っていました。

秀吉さんは運についていろいろと話してくれましたが、妙に淡々としていて、あまり感情がないように見えました。

覇気がないというか、元気がないというか、あきらめ悟った・・・という感じがありありと出ていました。

そんな秀吉さんに、徳川のことや当時のことを聞く勇気はなく、この日はそのまま帰りました。

元々、戦国時代についてそんなに興味はないので、何も聞かなかったことは別にいいのですが、秀吉さんが元気がない理由は聞けばよかったかな、と思います。

この日は ”豊国神社” の方には行かなかったので、次回行く時は時間を取って、神社の方にも行ってみよう・・・と思っています。

ちなみに、運について・・・は、まだまだ答えに手が届くところまでいかず、手探りで勉強中です。

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めくるめく豊臣の世界へようこそ

(タイトルは、「」より)

まずは、この度の台風21号と北海道地震にて被災されたみなさまには、こころよりお見舞い申し上げます。

(みなせの地元の嵯峨嵐山も、渡月橋の欄干が倒壊するなど多くの被害がありました)

にも記しましたが、

「忘れないことと、自分の生活を整えてゆくこと」。

この言葉を胸に、自分にできることを日々考えつつ、通常営業してまいります。

さて、去る8月18日と9月1日の両土曜日、「」を開催いたしました。

※京都蘖(ひこばえ)の会とは?

京都(時々滋賀)を舞台にした、主に元・JWの方々のための少人数の集いです。

京都ならではの風景とお食事、何より参加者同士の交流をいちばん大切にしています。
コンセプト等、詳細は
の記事参照。

全国的な猛暑の中でも、とりわけ11日連続の猛暑日を記録するなど、今や日本一アツい街になった京都。

↓抜群の安定感!ww

そんな灼熱地獄での開催など、もはや罰ゲーム…いえむしろ拷問の領域なのは、企画したみなせ自身もハッキリ自覚していましたので、早々に告知記事の「お申し込み状況」欄に貼り付ける「やけ酒」、「ふて寝」のネタ画像を真剣に探していました(^^;

…にもかかわらず、どちらも1名ずつご参加くださったのみならず、何とも不思議なことに当日は両日とも秋を感じさせるとても涼しい日になりまして、それこそ「エh(以下略)…

ご参加くださったMさんとKさん(いずれもリピート参加)には、ただただ感謝であります。

時間軸は逆になりますが、まずはメインの「」から!

ビールには珍しい?カツサンドを中心にした、お酒にはピッタリな品々が上品に並んでいます。

脇の扇子は、「当館ビアガーデン20周年記念の感謝を込めて…」とのこと。

(当然、2本もらっちゃった♪:笑)

涼しい中とはいえ、ここまで約5時間街歩きとおしゃべりをしただけに、ビールの美味しいことと言ったらもう!(><)/
何よりお楽しみの、舞妓さんタイム!
1回目(8月18日):
「『仲良しこよし』の小よしどす~」と自己紹介くださった、宮川町の舞妓「小よし」さんは福岡県のご出身とのこと。
「お礼だけやのうて、やんわり断ることもできる、『おおきに』の言葉はえろう便利どすなぁ~」など、トークがとっても楽しい舞妓さんでした。
「小よし」さんの舞。
2回目(9月1日):
たたずまいもお話もクールでクレバーな雰囲気に魅了される、同じく宮川町の舞妓「小えん」さん。
舞妓の修業のお話など、普段なかなか聞けない花街のお話を楽しませていただきました♪
「小えん」さんの舞。
1分近く音楽が始まらないというアクシデントの中、姿勢どころか表情すら崩さず、まさに凛としたたたずまい。
可憐と言うより、カッコイイ!
お二人からいただいた「花名刺」。
お財布に入れておくとお金が「まいこむ」と言われています。
楽しいトークと心地よい酔いのうちに、夢のように楽しい時間が過ぎてゆきました。
ビアガーデンの前には、街中の歴史散歩を楽しみました。
1回目(8月18日):
(京都市指定有形文化財)
大正時代の豪商により建築された和洋折衷の京町家。
和室部分は数寄屋の名工、上坂浅次郎が、
洋館部分は国会議事堂の建築も手掛けた「近代建築の父」の設計。
ガラスは昔ながらの「歪み硝子」で、当時の価格で1枚千円はするという大変高価なもの。
現在に至るまで1枚も割れることなく、きれいな状態で保存されているとのことです。
実はこちらの紫織庵、今度、国の「重要文化財」指定を受けるため、この翌週に博物館としての営業を終了することになりまして、何とも良いタイミングでお邪魔できたのでした。
これもやはりe…もう言わないぞっ!!ww
2回目(9月1日):神泉苑と二条城から三条大橋へ
かつて平安京の禁苑(皇居の庭)として、桓武天皇以後、歴代の天皇が行幸遊宴を楽しんだ。
また貞観5年(863)に当時の国の数にあたる66本の矛を立てて開催された「御霊会(ごりょうえ)」が、現在の祇園祭の発祥と言われています。
源義経と静御前が初めて出会ったのも、この神泉苑。
※画像はより引用
そして、中央の「法成橋」は、弘法大師ゆかりの橋。
「必ず願いが叶う」と言われるパワースポットです。
※画像は「るるぶダイニング」より引用
全国でも唯一、毎年その向きを変える「歳徳神」。
境内のアヒルさんは人慣れしているのか、警戒心などまったくなくゆったり過ごしています。
江戸幕府誕生と終焉の舞台となった(世界遺産)。
昨年は「大政奉還150年」、そして今年は「明治維新150年」の大きな節目だけに、いつも以上に賑わっています。
豪壮な二の丸御殿と、皇室ゆかりの優雅な本丸庭園をゆったり散策。
金ぴかの鳥居がゴージャスな、その名も「御金神社」。
テレビでもたびたび紹介されますので、ご存知の方も多いことでしょう。
みなせのよーに「お金命!お金LOVE!!」な人には外せません(笑)
東海道の西の起点、また坂本龍馬や勝海舟そして新選組など、幕末維新の英雄たちが駆け抜けた史跡がたくさん残る三条大橋界わいの散策。
坂本龍馬と盟友中岡慎太郎最期の地、近江屋址へ向かう途中のは多種多様なパフェが有名。
必見の超ジャンボパフェはもちろんのこと、揚げ物が乗っかった変わり種のパフェ、勇気があったら試してみてくださいまし(笑)
~1回目、2回目共通コース~
六角堂

7月に出会ったはすっかり大きくなって、今や小学5年生くらいというところでしょうか?
資料見ながらのガイドに夢中で写真撮るの忘れました。
詳細はリンク先を見てね(^^;
明智光秀が織田信長を討ち取った、「本能寺の変」の舞台。
ちなみに、現在の寺地は豊臣秀吉によって移転されたものであり、実際に信長が最期を迎えたのは、ここから少し離れた場所にあります。
(本能寺跡は、9月1日のみ訪問)
「能」の字体が現在とは違うことにお気づきかも知れません。
これは当時常用されていた字体なのですが、「本能寺の変」はじめ幾度となく火災に遭っていたために「ヒが去る」という意味合いも込められているのだとも言い伝えられています。
2次会(1回目:8月18日のみ)
帰りのバスの時間まで、木屋町通りのスペイン風のバルでサングリア片手にもうしばらくのおしゃべりを…♪
(えーかげん酔いが回ってて、ピンボケ気味なのはご愛敬とゆーことでw)
送り火が過ぎ、暑さの中にも秋の色が徐々に深まる京のみやこ。
涼やかな夜風の中、にぎやかに重ねるジョッキ。
みやびな舞と、美味しいお料理。
そして何より、こころ通う交流…。
親が入信したという理由だけで、望まずに身を置いていた“JWだった”という過去。
その教理とおかしな同調圧力ゆえに、しなくてよかったはずの苦労や、負わなくてもよかったはずの心の傷があったかもしれない。
しかし、”JWだった”という過去があったからこそ繋がれるご縁がある、育める絆がある。
自分の意志で、自分の人生を選んだ(選びつつある)現在、過去の「傷」を逆手に取ってでも自分なりの幸せへの道を拓いてゆきたい。いえ、拓いてゆける…。
「オフ会」とも言えない(あえて言いたくない:笑)、小さな小さな集まり。
でも、小さいからこそ自由で柔軟に、機敏に動いてゆける。
小さいからこそ密度の高い交流ができる、つながりを深めることが出来る。
”アフターJW”という「心の切り株」に、ささやかな「縁の蘖」が芽吹くならば。
芽吹いた「縁の蘖」を大切に育んで、今後の人生のプラスにしてゆけるならば…。
「京都蘖の会」は、そんな願いのもとで開催しています。
ガイドの知識も、コミュニケーションスキルもまだまだつたないわたしですが、「京都蘖の会」と、いただいたご縁を大切に守り育てて参ります。
前回に続いてご参加くださったMさんとKさんには、改めてこころからの「ありがとう」と「大好き」を…。
※次回、「晩秋の京都蘖の会」は、11月下旬~12月上旬の土曜日と日曜日に開催予定です。
詳細は9月25日にこのブログ内にて告知、10月1日よりお申込み受付開始します。
(もちろん「京都蘖の会」とは別の、通常の京都観光案内は常時受け付け中ですよぉ♪)

豊臣 そうだ!京都へ行こう!

おはよんd=(^o^)=b

西伊豆は土肥温泉に泊まりましたん~♨️
どやっ~♨️
(真似してみましたん)
片桐且元は、豊臣家に支えてましたが、徳川家に豊臣の血筋を絶やさぬよう頼みますが、叶わず滅亡してしまいます。
結果的に滅亡に加担してしまった事を悔いて、安良里で追い腹をしたと言われています。
弥四郎屋では、追い腹をした場所を権現様として御守りしてきた歴史があり、金比羅様があったようです。
子供の頃、親父がうちは片桐且元の末裔だからと、言ってましたん。
片桐且元のお墓は、静岡の妙心寺にもあり、同じ臨済宗のお寺さんなので、西伊豆から船で運んで埋葬したのではないか?って思ってまふ。
では、なぜ片桐且元がワザワザ安良里にきたのでしょうか?何も資料が残ってないので、よくわからないのですが、子供の頃、学者さんが訪ねてきた事があり、祠の中に鏡が三枚あって、そのうち、二枚を持っていきました。
(祠がどこにあったかもわかりませんが)
水軍の基地でしたし、駿府城も水路では近かったので、関係があるのかもしれませんね。
お寺さんも、弥四郎屋も何回か火事になっているみたいで、過去帳が焼失しているらしく、何も残ってないのが残念です。
親父が、見渡す限り、うちの土地だったと言っていたので、親父は随分とホラ吹きだと思った記憶がありますが、農地解放で無くなってしまったらしく、あながちホラでもなかったのねん。
昨日のランチは、下田の東急ホテルに行ったのでふが、予約しか受けてないとの事で、市場の食堂に行ってみましたん😃
~😄
きんめ定食~~😄
サザエさん~😄
ではではみなさん
今日もファイトだよん(^-^)v


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有名日本武将の血液型
伊達政宗B型
織田信長B型
豊臣秀吉O型
北条氏康O型
柴田勝家O型
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#血液型 #日本史
RT @Hiro35306230: 秀吉が家康を攻めようと大軍を準備してる時に大地震が起きて戦どころではなくなり畿内の復興を優先した話があって地震が無ければ秀吉が家康を攻め数で勝利し豊臣政権がもっと強固な物になってたはず、地震が歴史を変えた。 https://t.co/WbPU…
秋月種長
九州征伐後に豊臣秀吉に仕え文禄・慶長の役では蔚山城の戦いで武功を挙げた。関ヶ原の戦いでは西軍につき大垣城を守備していたが関ヶ原本戦で西軍が敗れると東軍・水野勝成の勧めを受け弟・高橋元種と共に西軍を裏切り木村由信などの諸将… https://t.co/3U82GZBTl6
ちょっと気になって素人レベルに聚楽弟を調べたんですけど、豊臣は勿論、 細川 黒田 前田家あたりは関係者っぽいですね。で、本科長義に関してはその辺の御家にあんまり関係ないんじゃ…?徳川だよね確か…いや、にわかの戯言なのでこんなツイート気にしないでね

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