これでいいのかマスオさん
こんにちは。
歴史家とっきぃです。改訂記事です。
歴史を学ぶということは、自分自身の生き方を鑑みることです。
応用編として、人体の構造を歴史事跡に当てはめると面白い。
例えば、内臓は大脳なんかより歴史(発生)がずっと古いです。
特に腸管(ちょうかん/小腸・大腸)は人間の脳組織にとって最大の外様大名と云えます。上端に腹腔神経叢、前衛にヘソ(臍/キャノピーかつ外部との直接受信機)、下端に臍下丹田(せいか・たんでん)と総構えで情報センターを布陣しています。そして総血液量の半分を湛(たた)えている鉄壁の要塞でもあるんです。内蔵同士はホルモンで情報をやり取りをしています。ちなみに頭部の血液量は全体の四分の一です。大脳が徳川幕府ならば、腸管は島津家や伊達家など、鎌倉幕府つまり天下草創(原生動物発祥)以来の名家に相当します。
とまぁ、歴史の応用は面白くてやめられません。
というわけで、今回は陽気でお気楽な次男と、あげまん女房のお話です。本邦にも頼朝夫人(政子さん)、光秀夫人(煕子さん)、秀吉夫人(北政所さん)とか、あげまん女房はいます。
今回採り上げるのは、珍しい欧州のアゲマン皇后のお話です。
今回記事にするのは、ベルばら記事でおなじみマリー・アントワネットの次兄、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト二世と奥方様のマリア・ルドヴィカ皇后です。
レオポルト二世の父親はフランツ一世ステファン皇帝、母親はかの「女帝」マリア・テレジアです。レオポルトは次男。生真面目なハプスブルク家にしては珍しい陽気な性格です。
戦前の日本風に言えば「帝大出の長男、私大出の次男」といった感じです。兄のヨーゼフは、ド真面目な理想主義者で、皇帝に登位するやいなやゴリ押しの改革を打ち出してはその度に失敗しました。現場の検証をやっていないんですね。また、母の宿敵であるプロイセン王国のフリードリッヒ大王にあこがれて、どうしても会いたいと母に懇願。女帝は下げたくもない頭を下げて「(言えた義理じゃありませんが)どうか、うちの子に会ってやってください」とサンスーシ宮殿に住む大王に恥を忍んで手紙を書いたりしています。
この頃フリードリッヒ大王は軍神扱いされていて、当時の貴公子の憧れの的でした。ちなみに今上のロシア皇帝ピョートル三世も大王の熱烈なファンです。
どこか秀才風をふかせるヤなやつの側面がある長男ヨーゼフに比べて、次男のレオポルトは次期皇帝のプレッシャーがないからか、のんびりしています。親父(フランツ・ステファン皇帝)から引き継いだトスカナ大公国では名君レオポルド一世として、名を残しています。ちなみに親父のフランツ・ステファンはマリア・テレジアとの婚姻の際、フランスとの交渉で母国ロレーヌ公国をポーランド王に割譲しました。で、その代替として得たのがトスカナ大公国でした。首都はフィレンツェです。近代の濫觴(らんしょう/始まり)たるルネッサンスが始まった都市として有名ですが、逆に言えばそれだけやかましい側面があるんです。この難治なフィレンツェをきっちりと治めたばかりか、蓄財や農場経営の才能までみせるのだから、この入り婿皇帝フランツ・ステファンはたいしたものです。表向き(政治)は女房のマリア・テレジアが秀でているので完全にお任せです。入り婿というのは、マスオさんにしろ、中村主水にせよ、針のむしろでつらいものがあります。神聖ローマ皇帝はフランス王と同じく、フランク王国の後継君主ですからサリカ法で男系男子必須なんです。ですので、マリア・テレジアは皇帝にはなれないんです。旦那のフランツ・ステファンが、皇帝フランツ一世として即位します。「女帝」というのはあくまで通称で、正確には「ハンガリー女王」が君主としての肩書きです。
フランツと女帝は恋愛結婚です。王族で恋愛結婚は珍しく、このカップルの他はスペインのカトリック両王(イザベル女王&フェルナンド王)くらいですね。ほかの王族なり貴族なりは、オール政略結婚です。あのルイ十四世なんか、マザラン枢機卿の姪だったマリー・マンチーニに本気で惚れていましたが、スペインとの友好のため泣く泣く別れました。若いころのルイ十四世はちょっと自閉症気味で、日本の家光将軍とどこか似ています。彼の心に寄り添って傾聴したのが、マリー・マンチーニ嬢でした。
要するに、恋愛結婚なんて夢のまた夢だったんです。フランツ・ステファンとマリア・テレジアはそれを成就させた!
つまり、泣く泣く政略結婚した貴族夫婦たちにしてみれば、存在自体がムカつくんです。女帝は一生懸命に政務に取り組んで汗を流しているから誰も責めないんです。白い目は入り婿のフランツ・ステファンに自然に向かいます。
ウィーンに居るのはつらいので、フランツ・ステファンは自領のトスカナでヘソクリ蓄財にはげむというわけです。このあたり中村主水介玉五郎(なかむら・もんどのすけ・たまごろう/「必殺仕事人IV」第43話より)に似ていますね。
そういう親父の生き様を横でじっと見ていたのがレオポルトです。母親の愛情は兄ヨーゼフと、四女姉さんのミミ(マリア・クリスティーナ)が独占していますから、彼の居場所はないんです。このミミという姉貴がまたイヤなヤツなんです。いろんな特技があってそのぶん母親の女帝に取り入るのがうまく、兄弟姉妹のイロイロをぜんぶ女帝にチクるんです。よって兄弟姉妹から総スカンですが、決定的なのが女帝におねだりして恋愛結婚をやってしまった。ですからもう、人間関係が最悪なんです。
ミミの恋愛結婚に反対していたのは父親でした。旦那となる男の気持ちを察したんですね・・・。そんなやさしい親父の背中がレオポルトの目標だったのかもしれません。ウィーンの宮廷でこそバカにされていますが、この次男坊にとっては、とても大きな背中だったととっきぃは拝察致します。背中で教える父親といえば、「特捜最前線」の橘警部と、「ねぎぼうずのあさたろう」のながきちさんですね。
レオポルトは父親の崩御に伴い、トスカナを襲封します。
父フランツ・ステファンと同じく統治と、女遊びに人生を見出します。
そんな陽気なレオポルトのパートナーが、マリア・ルドヴィカ皇后です。スペインからお輿入れしました。スペイン出身ですから真面目で忍耐強いです。女遊びにも割りと寛容です(少なくとも人前では)。ルイ十四世のマリー・テレーズ王妃(スペイン出身)もそうでした。女性がおおらかだと、なぜか男は成長するんです。人類の七不思議といってもいいのではないでしょうか。
そしてマリア・ルドヴィカ皇后は、顔がすごい。
「顔でかい、鼻でかい、口でかい」とみごとにAGEMAN人相です。
AGEMAN人相についてはmzさんのが的を得て面白いです。お薦めです。
そしてなぜか、男は古今東西、その逆(小顔・かわいい鼻・おちょぼ口)を女性の容姿に求める傾向があります。
事実、兄ヨーゼフの奥様は大変な美人で、弟夫婦と並ぶ度に兄は優越感に浸っていたようです。この美人嫁は流行り病でポックリと逝ってしまい、秀才兄貴はかなりの落ち込みだったみたいです。美人や床上手はSAGEMANと相場は決まっています。二番目の嫂(兄嫁)は肖像画では顎のとんがった美形ですが、実際は小柄でふくよかな女性だったようです。ところが見た目重視のボンボン兄貴はこの後添えを「チビ!、ブス!、デブ!」と切り捨てて省みませんでした。ま、それだけの器です。母親の没後は単独で、一生懸命に国政改革をやるんですが、前述の通り二進も三進もいきません。当たり前です。女性を粗末にする男に国民がついてくるはずがないんです。「大衆は女だ」は『我が闘争』の名言です。
その逆をいったのが例の次男坊!
いかにも18世紀らしく、女遊びから女性の美質を学び取っていたレオポルトの勝ちです。トスカナの領地経営はトントン拍子にうまくいきます。あのダンテが辟易した、やかましいフィレンツェ市民からすら名君扱いされたのです。ぜんぶ「顔でかい、鼻でかい、口でかい」マリア・ルドヴィカ妃の陰徳です。レオポルド大公が、はでな女遊びの中で一番大事にした女性はもちろん、マリア・ルドヴィカ妃です。秀吉&北政所夫婦と相似形です。
1790年、
陰険だった兄ヨーゼフ二世の急逝で次男坊はウィーンに上洛。宗家を継いで神聖ローマ皇帝レオポルト二世を名乗ります。陽気なトスカナとはまったくちがう環境で、さしもの名君も気が滅入ったのかもしれません。親父の苦労した様子がフラッシュバックしたのかもしれません。体調を崩します。さすがに皇后のAGEMAN効果もやや限界にきたのかもしれません。
皇帝に登位してわずか2年で皇帝レオポルト二世は崩御しました。奥方のマリア・ルドヴィカ皇后も後を追うように急逝します。皇位は嫡男のフランツ・ヨーゼフ・カールが継承しました。
その後、ナポレオンの台頭で欧州はシッチャカメッチャカになりますが、そういう場に居合わせずにすんだこと自体が最大のAGEMAN効果だったのかもしれないですね。
ルックス重視のヨーゼフ二世と、内面重視のレオポルト二世、同じ兄弟でも対照的な結果を残しました。
緑の上着がトレードマークの兄ヨーゼフに対して、弟レオポルトは白の上着です。
「顔でかい、鼻でかい、口でかい」女性は国の宝です。
世の男性はもっと女性をよく観察しましょう。
ヨーゼフ皇帝みたいに「出まわり物件(婚活用語)」に執着するようでは、人生痴れています。
そして、
男の値打ちとは何か、女性の方々も考えてほしいものです。レオポルト帝の目標だった父フランツ・ステファンの大きな背中に、広い心、あったかい何かを感じませんか。
母のマリア・テレジア女帝は宝石番長としても有名でけっこうな浪費家なんです(戦争で台所は火の車!・・・なのに)。でも父のフランツ・ステファンは、懸命に政治仕事をして子供も産む恋女房を生涯大事にしました。この”理想の”旦那が亡くなった時にはさすがの女帝もショックで、人生最後の日まで喪服をお召になったそうです。
攻守どころは変わりますが、オシドリ夫婦ぶりは次男夫婦が継ぎました。レオポルト二世とマリア・ルドヴィカ皇后、公私共に幸福な夫婦でした。
マスオさん事実、美しい
今日は姉に関する愚痴を少しばかり。
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私の姉はとにかく極端に目立ちたい人で、人から注目されることに生きがいを感じている。なんでも一番にならないと気が済まない。
他人の注目を集めるために、人とは違う派手な目立つ服を着て、人とは違う意見を言い、人とは違った行動を取る。人が集まる場所には必ず遅刻して行く。
どこへ行こうが、その場所で一番目立つ存在にならないと気が済まない。町おこしのボランティア活動グループならリーダーになって仕切りたい。途中から参加したので既に先輩格のリーダーがいる場合は、その人がグループを辞めるまで執拗にいじめる。たまたま通りかかった知らない街の秋祭りの蕎麦打ち体験だったとしても、参加者の中で一番上手だと言われたいので、大汗をかいて血相を変えて本気で挑戦し、場の和やかなムードを壊す。
当然のことながら、周りにいる人たちは皆、姉のことを面倒臭い人扱いする。仲間外れにしたり完全に無視すると、これまた後の仕返しがウザいので、上手くかわして敬遠する。
メンバーになっている社会活動の会について、姉は「私がこんなに一生懸命やっているのに、誰も正しい評価をしてくれない。」「男の人たちはいつもミニスカートを着て来るガリガリに痩せた阿保そうな女ばっかりちやほやして阿保みたい。」と、常に文句を言っている。
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そんな姉の唯一の自慢というか、自信というか、心の拠り所になっているのが「女社長」という肩書きである。
会社の規模は、男性の正社員二人、週3日の主婦アルバイト一人。ちなみに男性社員は離職率が高く、1年か1年半で人が入れ替わる。会社は自宅の敷地内にあるので事務所の賃貸料なども発生しない。
元はといえば、父が60年前に創業した会社である。父の死後、母が商売を引き継いだ。姉と結婚したマスオさんが母の後を継いだが、姉と離婚したので母から解雇された。そこで姉が社長になった。ちなみに会社の株は今でも母が全て所有しているので、姉は雇われ社長でしかない。
ところが姉の「私は女社長」ぶりは一部上場企業の社長レベルに匹敵する。たまに姉と一緒に外食した際に、お店の人と他愛ない世間話中に職業を聞かれたら姉はすかさず自らを「社長です。」と名乗る。隣に座って黙っている私は、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。何処へ行ってもこの調子。二言目には「社長です。」と声高らかに叫ぶので、私は出来る限り一緒に外出しないよう工夫している。
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姉は会社の仕事はほとんどしていない。毎日、地域のバランティア活動グループやイベント主催の運営委員会の打ち合わせで忙しい。正午を過ぎる頃には外出し、夜中まで帰ってこないのが常だ。夕方に帰って来ると、着替えてまたすぐ出て行く。従業員が帰る際に声をかけて見送り戸締りをするのは、腰が曲がってきた80歳になる母の役割である。
姉は家事は全くやらない。毎日夜中に帰宅するので朝が起きられない。だから子供達のお弁当が作れない。朝食も作れない。以前は、現金引き出しが設けられていたので、子供達は好きなだけの現金を持って出て行き、登校途中にコンビニで何か買って食べていたようだった。子供達のお金遣いが荒いことに腹を立てた姉は現金引き出しをやめてしまったので、今は子供達は毎日朝食抜きである。昼のお弁当もないから、自分でアルバイトをして稼いだお金で食べている様子である。そのお金もない時はお婆ちゃんがお小遣いを渡す。お婆ちゃんはお金を使うことは嫌ではないが、母親が母親の責任を果たしていないことが原因なので、そっちが納得できない。
毎日の掃除、洗濯、犬の世話、食事の買い物と準備、菩提寺の檀家会の役割、これらは全て80歳の母がやっている。昨年、母が背骨の圧迫骨折で3ヶ月寝込んだことがあった。原因は濡れた洗濯物が入ったカゴを持ってベランダの階段の上り下りを日々していたことだった。後に試しに測ってみたら、洗濯カゴは7キロだったらしい。洗濯物が乾きにくい季節は家干しになってしまう。「なんで家の中こんな臭いの!」と姉が母を責める。
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本気か冗談か、同類項が大勢いるのか、人を踊らせて喜んでいる人が多いのか、あるいはギブアンドテイクなのか、世間ではそんな姉を祭り上げる人がたまにいる。たまに姉は人前で「女社長の苦労話」というテーマでプレゼンをすることがある。母は「棚ぼたやん。仕事何にもしたーれへんで。なんの苦労もあらへんで。何話すの?」と陰口を叩くが、姉のことを何も知らない人はプレゼンだけ聞いて話を鵜呑みにする。SNSでヤンヤヤンヤと盛り上げる。
そんなSNS投稿をたまたま目にしてしまった時は、今から6年前のことを思い出す。
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医療ミスで命を奪われて、夫が突然この世を去った時、私はハワイに一人でいた。夫が死ぬ2年ほど前から、姉と母とは絶縁状態になっていた。
ある日、突然姉からメールが送られてきた。実家の家・土地、会社の資本金、母が死んだ時に残すであろう現金全てに関して、遺産相続権を無条件で完全に放棄する書類にサインして送り返してくれと書いてあった。そんな協議を以前にしたことがなく、私としては「なんで私が全て放棄しないといけないの?」と思った。しかも姉のメールには「これが終わったら私は生涯安泰です。あなたは50歳過ぎたらきっと橋の下暮らしですね。」と書かれていて、「それが人に物を頼む時の態度か!」と、私ではなく私の夫が激怒した。書類へのサインを断ったことで、私は母と姉から完全に絶縁されてしまった。
夫が死んだ時、2年ぶりに実家に電話をした。でも誰もお葬式に来てくれなかった。お葬式の次の日から、私一人で会社を閉める手続きを始めた。借りていた事務所を整理して明け渡した。
夫の死後2週間が過ぎた時、賃貸していたマンションの部屋の大家から「夫が死んだなら今すぐ出て行け」と言われた。「首でも吊られたら不動産価値が下がるから未亡人を住まわせたくない。」という理由だった。賃貸契約はまだ半年残っていた。追い出すのは契約違反だ。がしかし、踏ん張って居座ったところで意地悪されるのが予測できた。
夫は死んでもういない。
仕事もやめたから今後は収入がない。
生命保険に入っていなか
た。
住むところもなくなる。
困ったなあ・・・
なんだかもう、嫌になった。アメリカもハワイも、嫌になった。夫の死因すら知らないままだけど、何か怪しいけど、泣き寝入りして、もう日本へ帰ろうと思った。
電話して、母に「日本へ帰ろうと思う。マンション借りて住む。マンションを借りるまでの数週間だけ実家に泊まらせて欲しい」とお願いすると、母は嬉しそうに「帰っておいで。」と言った。
次の日から荷物の整理を始めた。夫の遺品。遺品整理にはまだ時期が早すぎるけど、全部持って海を渡るのはナンセンスだと思えた。だから泣きながら処分した。服も靴も捨てた。腕時計やお財布、キーチェーンなど、小さなものだけ残して全て処分した。部屋が突然ガランとなった。
連絡をくれると言った母から連絡がない。飛行機の予約をしたいからいつ帰って良いのかを知りたい。3日後にこちらから電話した。母が言いにくそうに言った。
「やっぱり、帰って来られると、困るのよ。家族会議を開いたの。お姉ちゃんに一生懸命、あの子を帰らせてやって!ここに一緒に住まわせてやってくれ!と頼んだのよ、私。」
え?そこに一緒に住みたいなんて、私言わなかったよ、と思った。母は勘違いをしていたようだった。まずい。母が喋り続けた。
「そしたらね、孫たちが、私らからこの家を取るつもりや!この家は渡さへん!、と言い出して。結果、夫が死んだぐらいで帰って来たいって人生そんなに甘くない、という子供達の言葉で結論が出たのよ。お姉ちゃんが、まだ謝罪してもらってへんしなあ、と言って会議は終わったの。だからあなたには悪いけど日本に帰ろうなんて思わないで。お姉ちゃんが言ってる。あなたはもう日本を捨てた身だ、と。あなたがいないことが当たり前でこっちの生活は回っている、と。私たち、もう、あなたの話すらしないのが常で、今更帰って来られると私たちの暮らしのリズムが狂うから迷惑だ、と。」
そして母の最後の言葉はこうだった。
「そっちで死んでくれへんか?」
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結局私は夫の死後2年と8ヶ月が過ぎた時に日本へ移住した。移住後すぐに遺産相続権を全面的に放棄する書類にサインをしてた。
マンションを借りるまで3ヶ月実家に泊まった。本当はすぐにでも出て行きたかったが、母が「戻って来てすぐ出て行くと私たちが意地悪したみたいに近所が思うから、やめて。」と言ったので、我慢した。その3ヶ月、お皿を洗っていると中学生の甥っ子が突然やって来て水道の蛇口を締めてしまったこともあった。「水使い過ぎ。僕のお母さんのお金やし、無駄使いせんといて。」
でも、何より一番心外だったのは、日本へ帰国して実家へ泊まった翌日の朝だった。キッチンで母が淹れてくれたコーヒーを飲んでいた私の顔を見るなり、姉が言った言葉が今でも忘れられない。
「離婚と死別。離婚の方が辛いし。あんたより私の方が苦労が多いし。あんたより私の方が可哀想やし。」
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冒頭で語った通り、姉はなんでも一番にならないと気が済まない。だから、不幸さでも一番にならないと気が済まない。一番不幸、一番辛い、一番可哀想。
私はどうだろうか?
もちろん、不幸さで一番にはなりたくない。かと言って、幸せさでも一番になることに興味がない。幸せにはなりたいが、一番でなくてもいい。幸せも不幸も、人と比べて順序をつけるものではないから、一番も二番も存在しないと思う。姉は不幸な人だと思う。
帰国から3年半が過ぎた今、私は姉とも、母とも、良好な関係を保っている。水道の蛇口を閉めに来た甥っ子も、普通に話してくれる。買ったばかりの新作iPhoneを見せてくれる。「人生そんなに甘くない」と言った姪っ子も、私が実家に遊びに行くと隣に座りに来て好きな男の子の話をしてくれる。先日結婚した甥っ子も、お祝いに10万円包んだらちゃんと披露宴に招待してくれて「ありがとう」と言ってくれた。
私は馬鹿だと思う。人生で最も身内の愛と支えが必要だった時に助けてくれないばかりか「死んでくれ」と言った人たちを許して生きている。心の底には今でもわだかまりは、もちろん、ある。でも、それを微塵も見せないことができるぐらいには彼らを許している。多分自分のために。憎しみと怒りの感情は、私を一番疲れさせるから無意識に避けているのだと思う。
でも、やっぱり、大馬鹿ものだ。
「人間関係がうまくいかない…」と思ったときに試してみたい5つのマスオさん
那はうちの親との一時同居だって無理だった
マスオさん 関連ツイート
彼って、26歳って、知ってた?
50歳位に見えない?(笑)
マスオさんポジの役者さんがいい味出してるので是非😌👏🏻
今日も無理せず頑張って下さい😄