実はここにもマスオさん
シーズン中の土曜日は土曜日のにゃんこの為4時半には起床
あれこれして集合時間1分前に到着
まーまー予想通りのメンバーである
ここまでくる間に調子が良くない事に気付いていたので傍示峠はのっそりと、、、
たーぼーさんに無賃乗車で上る
続いてのくろんど池周回はヨネくんに無賃乗車
思いのホカ寒くて、脚先の感覚がなくなり体温も上がらない
「 今日はこのぐらいで勘弁しといたろー 」 って、いけのめだかにーさんみたいな捨て台詞を残して無断下車
ヨネさま、「 え”ぇ”! 」 って、マスオさんになってた
その後たらたら半周走って、脚先っちょの寒さ限界、、、、
シューズ内に仕込んでいたカカト高調整用もふもふをシューズ先端部分の通気口を塞ぐ位置へと移動
ウィンドブレーカーも着込んで相方さんの先導者に転身
最後の県道7号クライム区間のみ5倍で踏み踏みして終了
ヨネすんはくろんど池へ行かずに名古屋へ行くって帰路へ
残りの3名はいつものほっこりタイムへ
くろんど池の桜はまだ三分咲きぐらい
花よりソフトクリーム
まだまだ外気温が低いのであまりソフトではなくハードクリーム
食べれば食べるほど体温が下がって寒い
マスターが出勤してきたので恒例のもふもふタイムを堪能して帰店
もふもふの癒し効果は絶大である
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土曜日は11時から営業
どにゃんの後はきつい
そんな中で常連さんが来てくれるから楽しくがんばれる
で、いろいろ差し入れ戦争勃発中
じゅんさんよりジャスミンな特茶♪
Tくんより麦茶♪
たーぼーさんさりおさんなおくんファミリーよりラオちゃんシュークリームトリプルアタック♪
相方さんよりたい焼き、イモ餡&ananダブルアタック♪
皆さまありがとうござーます
、、、昨日までの流れを汲むとわざわざ書くまでもないかもしれない
そう、、、飲み物以外は既に行方不明
甘い物が毎日のように神隠しに遭ううちのお店、ほんと何か住み着いてるんじゃないか疑惑で怖い
ひょっとすると、、、
、、、茶毛のおーきーネコだったりするかもしれない
ごろにゃーご
マスオさん 元気だしていきましょう
今日は姉に関する愚痴を少しばかり。
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私の姉はとにかく極端に目立ちたい人で、人から注目されることに生きがいを感じている。なんでも一番にならないと気が済まない。
他人の注目を集めるために、人とは違う派手な目立つ服を着て、人とは違う意見を言い、人とは違った行動を取る。人が集まる場所には必ず遅刻して行く。
どこへ行こうが、その場所で一番目立つ存在にならないと気が済まない。町おこしのボランティア活動グループならリーダーになって仕切りたい。途中から参加したので既に先輩格のリーダーがいる場合は、その人がグループを辞めるまで執拗にいじめる。たまたま通りかかった知らない街の秋祭りの蕎麦打ち体験だったとしても、参加者の中で一番上手だと言われたいので、大汗をかいて血相を変えて本気で挑戦し、場の和やかなムードを壊す。
当然のことながら、周りにいる人たちは皆、姉のことを面倒臭い人扱いする。仲間外れにしたり完全に無視すると、これまた後の仕返しがウザいので、上手くかわして敬遠する。
メンバーになっている社会活動の会について、姉は「私がこんなに一生懸命やっているのに、誰も正しい評価をしてくれない。」「男の人たちはいつもミニスカートを着て来るガリガリに痩せた阿保そうな女ばっかりちやほやして阿保みたい。」と、常に文句を言っている。
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そんな姉の唯一の自慢というか、自信というか、心の拠り所になっているのが「女社長」という肩書きである。
会社の規模は、男性の正社員二人、週3日の主婦アルバイト一人。ちなみに男性社員は離職率が高く、1年か1年半で人が入れ替わる。会社は自宅の敷地内にあるので事務所の賃貸料なども発生しない。
元はといえば、父が60年前に創業した会社である。父の死後、母が商売を引き継いだ。姉と結婚したマスオさんが母の後を継いだが、姉と離婚したので母から解雇された。そこで姉が社長になった。ちなみに会社の株は今でも母が全て所有しているので、姉は雇われ社長でしかない。
ところが姉の「私は女社長」ぶりは一部上場企業の社長レベルに匹敵する。たまに姉と一緒に外食した際に、お店の人と他愛ない世間話中に職業を聞かれたら姉はすかさず自らを「社長です。」と名乗る。隣に座って黙っている私は、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。何処へ行ってもこの調子。二言目には「社長です。」と声高らかに叫ぶので、私は出来る限り一緒に外出しないよう工夫している。
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姉は会社の仕事はほとんどしていない。毎日、地域のバランティア活動グループやイベント主催の運営委員会の打ち合わせで忙しい。正午を過ぎる頃には外出し、夜中まで帰ってこないのが常だ。夕方に帰って来ると、着替えてまたすぐ出て行く。従業員が帰る際に声をかけて見送り戸締りをするのは、腰が曲がってきた80歳になる母の役割である。
姉は家事は全くやらない。毎日夜中に帰宅するので朝が起きられない。だから子供達のお弁当が作れない。朝食も作れない。以前は、現金引き出しが設けられていたので、子供達は好きなだけの現金を持って出て行き、登校途中にコンビニで何か買って食べていたようだった。子供達のお金遣いが荒いことに腹を立てた姉は現金引き出しをやめてしまったので、今は子供達は毎日朝食抜きである。昼のお弁当もないから、自分でアルバイトをして稼いだお金で食べている様子である。そのお金もない時はお婆ちゃんがお小遣いを渡す。お婆ちゃんはお金を使うことは嫌ではないが、母親が母親の責任を果たしていないことが原因なので、そっちが納得できない。
毎日の掃除、洗濯、犬の世話、食事の買い物と準備、菩提寺の檀家会の役割、これらは全て80歳の母がやっている。昨年、母が背骨の圧迫骨折で3ヶ月寝込んだことがあった。原因は濡れた洗濯物が入ったカゴを持ってベランダの階段の上り下りを日々していたことだった。後に試しに測ってみたら、洗濯カゴは7キロだったらしい。洗濯物が乾きにくい季節は家干しになってしまう。「なんで家の中こんな臭いの!」と姉が母を責める。
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本気か冗談か、同類項が大勢いるのか、人を踊らせて喜んでいる人が多いのか、あるいはギブアンドテイクなのか、世間ではそんな姉を祭り上げる人がたまにいる。たまに姉は人前で「女社長の苦労話」というテーマでプレゼンをすることがある。母は「棚ぼたやん。仕事何にもしたーれへんで。なんの苦労もあらへんで。何話すの?」と陰口を叩くが、姉のことを何も知らない人はプレゼンだけ聞いて話を鵜呑みにする。SNSでヤンヤヤンヤと盛り上げる。
そんなSNS投稿をたまたま目にしてしまった時は、今から6年前のことを思い出す。
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医療ミスで命を奪われて、夫が突然この世を去った時、私はハワイに一人でいた。夫が死ぬ2年ほど前から、姉と母とは絶縁状態になっていた。
ある日、突然姉からメールが送られてきた。実家の家・土地、会社の資本金、母が死んだ時に残すであろう現金全てに関して、遺産相続権を無条件で完全に放棄する書類にサインして送り返してくれと書いてあった。そんな協議を以前にしたことがなく、私としては「なんで私が全て放棄しないといけないの?」と思った。しかも姉のメールには「これが終わったら私は生涯安泰です。あなたは50歳過ぎたらきっと橋の下暮らしですね。」と書かれていて、「それが人に物を頼む時の態度か!」と、私ではなく私の夫が激怒した。書類へのサインを断ったことで、私は母と姉から完全に絶縁されてしまった。
夫が死んだ時、2年ぶりに実家に電話をした。でも誰もお葬式に来てくれなかった。お葬式の次の日から、私一人で会社を閉める手続きを始めた。借りていた事務所を整理して明け渡した。
夫の死後2週間が過ぎた時、賃貸していたマンションの部屋の大家から「夫が死んだなら今すぐ出て行け」と言われた。「首でも吊られたら不動産価値が下がるから未亡人を住まわせたくない。」という理由だった。賃貸契約はまだ半年残っていた。追い出すのは契約違反だ。がしかし、踏ん張って居座ったところで意地悪されるのが予測できた。
夫は死んでもういない。
仕事もやめたから今後は収入がない。
生命保険に入っていなか
た。
住むところもなくなる。
困ったなあ・・・
なんだかもう、嫌になった。アメリカもハワイも、嫌になった。夫の死因すら知らないままだけど、何か怪しいけど、泣き寝入りして、もう日本へ帰ろうと思った。
電話して、母に「日本へ帰ろうと思う。マンション借りて住む。マンションを借りるまでの数週間だけ実家に泊まらせて欲しい」とお願いすると、母は嬉しそうに「帰っておいで。」と言った。
次の日から荷物の整理を始めた。夫の遺品。遺品整理にはまだ時期が早すぎるけど、全部持って海を渡るのはナンセンスだと思えた。だから泣きながら処分した。服も靴も捨てた。腕時計やお財布、キーチェーンなど、小さなものだけ残して全て処分した。部屋が突然ガランとなった。
連絡をくれると言った母から連絡がない。飛行機の予約をしたいからいつ帰って良いのかを知りたい。3日後にこちらから電話した。母が言いにくそうに言った。
「やっぱり、帰って来られると、困るのよ。家族会議を開いたの。お姉ちゃんに一生懸命、あの子を帰らせてやって!ここに一緒に住まわせてやってくれ!と頼んだのよ、私。」
え?そこに一緒に住みたいなんて、私言わなかったよ、と思った。母は勘違いをしていたようだった。まずい。母が喋り続けた。
「そしたらね、孫たちが、私らからこの家を取るつもりや!この家は渡さへん!、と言い出して。結果、夫が死んだぐらいで帰って来たいって人生そんなに甘くない、という子供達の言葉で結論が出たのよ。お姉ちゃんが、まだ謝罪してもらってへんしなあ、と言って会議は終わったの。だからあなたには悪いけど日本に帰ろうなんて思わないで。お姉ちゃんが言ってる。あなたはもう日本を捨てた身だ、と。あなたがいないことが当たり前でこっちの生活は回っている、と。私たち、もう、あなたの話すらしないのが常で、今更帰って来られると私たちの暮らしのリズムが狂うから迷惑だ、と。」
そして母の最後の言葉はこうだった。
「そっちで死んでくれへんか?」
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結局私は夫の死後2年と8ヶ月が過ぎた時に日本へ移住した。移住後すぐに遺産相続権を全面的に放棄する書類にサインをしてた。
マンションを借りるまで3ヶ月実家に泊まった。本当はすぐにでも出て行きたかったが、母が「戻って来てすぐ出て行くと私たちが意地悪したみたいに近所が思うから、やめて。」と言ったので、我慢した。その3ヶ月、お皿を洗っていると中学生の甥っ子が突然やって来て水道の蛇口を締めてしまったこともあった。「水使い過ぎ。僕のお母さんのお金やし、無駄使いせんといて。」
でも、何より一番心外だったのは、日本へ帰国して実家へ泊まった翌日の朝だった。キッチンで母が淹れてくれたコーヒーを飲んでいた私の顔を見るなり、姉が言った言葉が今でも忘れられない。
「離婚と死別。離婚の方が辛いし。あんたより私の方が苦労が多いし。あんたより私の方が可哀想やし。」
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冒頭で語った通り、姉はなんでも一番にならないと気が済まない。だから、不幸さでも一番にならないと気が済まない。一番不幸、一番辛い、一番可哀想。
私はどうだろうか?
もちろん、不幸さで一番にはなりたくない。かと言って、幸せさでも一番になることに興味がない。幸せにはなりたいが、一番でなくてもいい。幸せも不幸も、人と比べて順序をつけるものではないから、一番も二番も存在しないと思う。姉は不幸な人だと思う。
帰国から3年半が過ぎた今、私は姉とも、母とも、良好な関係を保っている。水道の蛇口を閉めに来た甥っ子も、普通に話してくれる。買ったばかりの新作iPhoneを見せてくれる。「人生そんなに甘くない」と言った姪っ子も、私が実家に遊びに行くと隣に座りに来て好きな男の子の話をしてくれる。先日結婚した甥っ子も、お祝いに10万円包んだらちゃんと披露宴に招待してくれて「ありがとう」と言ってくれた。
私は馬鹿だと思う。人生で最も身内の愛と支えが必要だった時に助けてくれないばかりか「死んでくれ」と言った人たちを許して生きている。心の底には今でもわだかまりは、もちろん、ある。でも、それを微塵も見せないことができるぐらいには彼らを許している。多分自分のために。憎しみと怒りの感情は、私を一番疲れさせるから無意識に避けているのだと思う。
でも、やっぱり、大馬鹿ものだ。